3.31.2008

もう来てはならない

バーの主人は小さくため息をついた。
午後0時前、店じまいの支度をしていた。

いらっしゃい。

近くに住む、常連のお客だ。仕事が毎日遅いらしく、来る時間も決まっていつも遅い。バーにとって閉店時間という概念はあるようでないものだ。水商売を営む上、常連が付くことは大いに成功の証であり、この上ありがたいものはないが、基本的に彼らのワガママに振り回されるのが両刃の剣だ。今週だけでもこのお客に二度も明け方まで付き合わされていて、主人も頭を悩ませていた。

ごめんね、今日も遅くて。

いいえ。今日もお仕事、ご苦労様ですね。

いや~大変だったんですよ。

と、いう具合で始まる。

この常連客の男からしてみれば、この店は心の許せる数少ない逃げ場の一つであり、大変ありがたい存在だ。他の客が去ったあとのバーの空間が大好きで、口数少ない主人と共に流れる時間も好きだ。だから、次に主人の口からこぼれた言葉に大きなショックを受けた。

私も年だしね、これからは少し、閉店も早めようと思うのです。
いや、早めるといっても、営業時間どおりに夜中で終わりにしようと思ってね。

そうですよね、いつも立ちっぱなしの仕事ですもんね。
でも、このようにたまに遊びに来てもいいですよね?

それもできるかどうか。。。

そうですか。

正直ね、もう辞めようと思っているんですよ、今年か来年か。たかが飲み屋ですから、せがれに引き継いでもらおうなんて思ってないんでね。この街も、飲み屋が一軒減ったところで痛くもかゆくもないわけだし。

でも、ご主人のマティーニが飲めなくなるのも残念ですね。

あなたは、いつもウィスキーのロックじゃないですか。
他のお店でもウィスキーロックは飲めますよ。
主人はやさしく笑った。

いやぁ、残念だなぁ。

常連客の男は、迷惑者ではあるがバカではないことから、これ以上追求しないことにした。

3.28.2008

希望のお布施と十二指腸

薬は一日三回、必ず食後にとってください。一週間分出しておきます。
ちょっと強めの薬ですから、途中で具合が悪くなったりしたら、また連絡ください。
大したことはないと思いますが、念のため来週もう一度、来ていただきましょうか。

今朝、孝治は最後の錠剤をアルミシートから取りはずし、オレンジジュースで流し込んだ。これまで32年間、大きな病気も怪我もしたことがなかったから、突然医者から異常ありと伝えられ、相当動揺していた。でも、体調は大分よくなってきたし、今日医者から「大丈夫ですね」のお墨付きをもらえるか、内心ソワソワしていた。

ドアをくぐり、診療室に入る。医者はデスクに向かってカルテを開いている。

それでは、ちょっと見ましょうか。口あけてください。・・・うむ。

先生、大丈夫ですかね?

まぁ、うん、ノドは問題なさそうだね。

先生、悪いのはノドではないですよね?
先週おっしゃっていたレントゲンは?

そうなんだが。まぁ、こうしよう。もう一週間分の薬を出すからまた来週来なさい。
一週間だけでは、正直進捗がよく分からないのだよ、残念ながら。

相当悪いんでしょうか。

いや、どうともいえないね。申し訳ない、私としてはなかなか言いにくいことなんだがね。恥ずかしいことながら、君の病気には私は何にもしてあげられない可能性が高いのだ。それに、他の医者もどんな病院でも同じことを言われることだろう。この手の病気は本人の回復力と気持しか頼みにならないので、私は先週、ひとまず君に前向きになってもらおうと偽薬を処方したのだよ。それでも、残念ながら今日も何も様態は変わっていないようなんだ。

そうですか。正直に話してくれてありがとうございます。
先生、その病気は、なんという病気なんでしょうか?

正式な病名はない。国によっては呼び名が様々だ。
孝治君、君の十二指腸には神が宿っているのだよ。

神・・・ですか。

そう。食べ物を食べると、通常十二指腸で栄養を吸収したり、するんだけれども、「神」が宿っている人というのは、そこで栄養が不思議に消えてしまうんだ。大便も異常ないんだが、徐々に体が明らかに衰弱していく病気だ。だから、「神」が君の変わりに栄養を吸い取ってるとしか思えないのだよ。

先生、そんな非科学的な話があっていいんですか?

進められる療法は、おはらいくらいかね。

孝治は既に半歩、診療室を出ていた。

3.26.2008

食べないで、あと少し

僕、ハンバーガー。あなたが、今、手に持っているハンバーガー。
誇ること何一つ無い、マックのチーズバーガーだ。
しいて言えば上部のパンが少しずれていることが僕唯一の特徴だ。

なぜ、ハンバーガーが口きけるのかというと、それは君が想像の中で僕に声を与えたからだ。ありがたくも憎らしいとも思わないよ。この会話に飽きたら何もなかったかのように食べてもらっていいし、このまま僕を眺め続ける限りは君にしゃべりかけるよ。君の望むようになるよ。

僕には兄弟がいる。僕のお兄ちゃんはさっき買われていったビッグマックだった。もういないから、生存してる兄弟のなかでは僕が一番年上なんだ。あ、弟もビッグマックだよ。その下はアップルパイだ。妹だけどね。生みの親は休憩に入っちゃって、裏で一服してるよ。高校生のバイト君だよ。かわいい女子高生だったら自慢できたのにな。

君がしわをよせるのも分かる。いや、確かに変だよ。パンとレタスと肉がなんで一つの集合生命体になれるのかってさ。でも、言わせてもらうけど君だってそうだぜ?君の目の細胞も肌の細胞も骨の細胞も爪の細胞だって、一つ一つ立派な生き物なんだぜ?今は脳ミソの細胞が代表役仕切ってることだと思うけど、その中で民主主義は成立してると思うかい?へけけ。

匂いだけで味が分かるだろう。この、マックの匂い。匂いと味がこれだけかぶってる食べ物もそうそうないと思うよ。ほら、あるじゃない。ベルギーワッフルとか。匂いは相当香ばしいけど、いざ口に運ぶとフニャっとちょっとマヌケな味がするじゃない?いや、僕は食べたことがないけど。いや、友達からそう聞いたことがあるんだ。20分前。

がふ。

3.25.2008

ブルースハープが聞こえる




私も歳のせいなのか、最近胃腸の調子が芳しくない。公の場でえぇいと書いてみたところでどうしようもない話だがしばしお付き合いいただきたい。

今宵は、とてもじゃないが得意といえない「お久しぶりのお取引先とのお食事」という見た目上なんともシャレた社交行事に参加し、飲めないビールをシブシブ半分飲み、食べても内容がサッパリ分からない会席料理をビクビクしながら食し、アルコールが誘う睡魔と戦いながらパクパク口を動かしたのは覚えている。しどろもどろながらなんとか話題が無事につながったことを心より祈るばかりである。取引先は少しだけ付き合いの長い人なので、なんとか許してもらえたらいいなぁと思わせる、大の男いささかトホホな結末である。

知っては繰り返される過ちというのはこういうことで、帰宅時には予想通り胃がもたれ放題である。風呂をパッと済ませブタさんパジャマに着替え、台所に向かう。ポカリポカリポカリ。がない。諦めかけて冷蔵庫の引き出しをあけると、怪しげな大量の紙パックのジュース。

濃縮還元 黄の果実 果汁100% オレンジ・パインアップル・マンゴー・パッションフルーツ・ゴールドキウイ・レモン・グレープフルーツ・洋梨・黄桃・バナナ 200ml

酔っ払っているものの、一目おいてしまうスンゴイ商品名である。
・・・美味いのか、これは。どうでもいいが、「パインアップル」って。

いや、深い訳がある。

妻は最近パルシステムというやつに凝っている。パルシステムというのは、通販のスーパーみたいなものだ。ロゴマークの牛がすごくかわいい、アレだ。洋服にせよ雑貨にせよ食品にせよ、通販というのはある意味恐ろしいもので、安カロウ、という極めて野生的な心理に訴えかけ、僕の奥さんみたいな人にこういった「オレンジ・パインアップル・マンゴー・パッションフルーツ・ゴールドキウイ・レモン・グレープフルーツ・洋梨・黄桃・バナナ」の混ぜ物をカートン買いさせる勇気を与えてしまうものである。

フツーに美味しかったので、許すこととする。
トホホ。

3.20.2008

小休止

もしも

後ろから強盗に追われていて、正面はライオンが襲ってきていて、右側は深い深い崖で左は火の海で、立つ地面が底なし沼で上からはゴルフボールくらいでっかいヒョウが降っていて、

そして百億円の借金を負っていて利き腕をもぎ取られていて、誰もたまたま電話に出てくれなくて家族にも見捨てられ、保険もなく

オマケにその上ブサイクチビデブ短足で、あがり症不器用後ろ向きで、取り柄も趣味も好物もなくて宛てもなく、高所恐怖症で

過去は隠し事だらけで将来性も理想もなくて、帰る場所も、行き先も興味も才能も人脈もなくて

時間もなく

余裕もなく

そんななか笑えるキッカケを一つも見いだすことが出来なかったら、どうしよう。

インベーダー

こんな家、出てってやる。

おう、出ていけこのドラ息子め。二度と戻るなこのろくでなし。

あんたみたいな小っさい大人だけにはなりたくないね。
俺は自分の道を切り開く。あばよ、クソじじぃ。

一時期そう別れたワタナベ親子。父子ともに頑固な性格だけ似ていて、いずれはこうなるだろうと誰もが予想していた。ただ、月日が流れ、いずれとある東京の片隅で二人ともホームレスとなって再会することを誰が予測できたであろうか。

お互い濃いヒゲと変わり果てた様相にまとわれ、己の分身と向き合っていることに気づかなかった。再会、とはいってもたまたま住まいの段ボールがとなり同士になっただけのこと。どちらかが気が変わるなり、段ボールがボロボロになるなり、日雇いの現場が変わるなり、すぐまた離ればなれになってしまうきっかけはいくらでもあった。

一方、隣同士だからといって、特段会話が発生するわけでもない。ホームレス同士だからといって、いや、ホームレス同士だからこそ馴れ合いというものに敏感だ。稀に望んでこういう生活を選んだ者もいなくはないが、大半は何かと挫折や失敗の結果としてこのような生活を強いられている。誰もが、まるでこうなった自分がまるで自分でないような、時々そんな気もする。だから、敢えて他人の名前なんて聞こうとしないし、深入りしない、一人でいることの方が断然多い。

すいません、「塩」を貸してください。

おう、もってけ。

長いんですか?

7年くらいだ。

ここらへん、仕事は近くにありませんか。

最近はサッパリだ。それより、お前。

はい。

ここはお前が居るべきところじゃない。何せ俺の縄張りだ。
悪いことは言わない、よそで自分の道を切り開いておけ。

悪かったです。明日、また動くこととします。

3.17.2008

品格と秩序の先に

柳田氏は医者になる運命の男だったが、いまはパン屋さんだ。運命といっても色々あって、くつがえすことの出来ないものが主流であるが、必ずしもそうでない運命もある。柳田はそれを乗り越えていまのパン業に至ったわけだが、当人は運命に逆らった意識はない。人生一度っきりなので、運命を守ろうと無視しようと、結局成ったほうが結果に過ぎない。それだけのことである。

柳田の仕事っぷりをみれば、かなり手先が器用であることは一目瞭然だ。飴細工のような、飾りパン。機械がつくったかのように、同じ形と大きさのクロワッサンがずらっと並ぶ。焼きたてのアンパンのキツネ色も鮮やかで、こしあんは黒ゴマを一振り、つぶあんは白ゴマを一振り。仕事こそは見事だが、医者の悪い性質を引き継いだ側面もある。柳田は基本的に接客が苦手で、どのように努力しても少し人を見下した態度が出てしまう。柳田はかなりプライドの高いパン屋さんなのである。

そんな柳田に恋をしている、いや、柳田という人物像にあこがれる少女がいる。その少女は週に一回、母親とこの店に食パンを買いに来る。少女は来るたびにメロンパンやアンドーナツやクリームパンを物色するなりおねだりするが、母親はまっすぐレジに向かって仏頂面の柳田からいつもの一斤を買う。ママ、こんなにステキなパンがたくさん並んでるのに、うちはなんでいつも食パンなの?甘いものばかり食べてると太るわよ。と、そんな調子だ。

柳田のパンは決して安くない。それなりのてまひまをかけてるわけで、繰り返しになるがその上プライドが高い。少女の母親も、大きな声では言わないがそれなりに裕福な財力を握っているからわざわざこのパンを買うのだ。少女の母親は、少女に冷たくしているつもりはないが、それなりの品格を保ってもらいたいこともあって、家庭内の秩序を保つために、地味といえよう食パンを食べさせている。いつか少女がどこかの弁護士か医者に嫁ぐときに、胸を張って送り出したいという思いも少しある。

少女は柳田に引かれていく。来月から、お小遣いをもらうことになっているが、まっさきにメロンパンを買いにいくことを心に決めている。

3.10.2008

美味しい話

フルフェイスのヘルメットをかぶった男が銀行に入ってきた。その様相から、次に取り得る行動は一つしかないと誰もがその瞬間に思った。男はすかさず言う:

「みんな手をあげろ!」

コートの中からピストルを取り出し、周りからよく見えるように上に向けた。銀行員も、警備員も、客として来ていた主婦とその子供も一斉に手をあげた。男はすばやく窓口に向かい、袋を銀行員に渡した。

「ひとまず、この袋を現金でいっぱいにしろ。早く!」

銀行員は言われたとおりにこれでもかと札束を詰め込んだ。誰かが警告ボタンを押したので、ものの15分くらいで銀行の前には5台のパトカーとやじ馬が集まった。お前は囲まれている、無駄な抵抗はせずにでてきなさ~い、と警察はいう。ただ、男は妙に冷静だ。窓のブラインドから外の騒ぎを確認し、人質となった人たちに目を向けた。その穏やかな表情には皆おどろいた。

「私は誰もケガさせるつもりはありません。これから提案をするので良く聞いてください。一度しか説明しませんから。」

男は人質を全員解放すると約束した。ただ、一人だけ残ってもらいたいという。その一人の役目というのは、男が銀行を出て自分にクルマに移動する間の、いわゆる「たて」となることだ。男の計画だとその一人もクルマに一緒に乗ってもらい、適当なところで降りてもらうというのだ。報酬は袋に入った現金から500万円支払うという。

「いい話だと思うのですが、いかがでしょうか。」

その後、開放されて警察に保護された人々は、なんだか複雑な気持ちだったそうで。

3.09.2008

ユモレスク

ガラ空きの客席に向かって歌うジャズシンガー。23時過ぎの、この街唯一のジャズクラブではよくある風景。それでもいまや50才を過ぎた歌姫は今宵も何かを命がけで守るように熱唱している。手持ち無沙汰のマスターは同じグラスを何度も何度も磨いている。

曲の途中で、マスターが割り込む。

「雪見さん、岡部、今日はもう上がりでいいよ」

雪見と伴奏の岡部という男は見向きせず、曲を最後まで演奏した。岡部は無口だが、雪見と息が合っている。かれこれこの店で4年間も付き合っている。

「もう一曲歌っていくわ」

「火曜日なんだし、もう誰も来やしないよ」

「岡部、何か、ゆっくりの弾いて」

少し考えてから、岡部はシナトラの出だしを弾き始めた。もう一曲、あともう一曲、あともう一曲。最近よくある、閉店間際のマスターと雪見の間のやりとりだ。大体3曲弾き終えると雪見は諦めて、無言でステージをおりて帰る支度をする。

チリン、とドアの鈴が鳴る。

「マスターまだやってるかい?」

「あと30分だけどよろしければ。何にされます?」

「ウォッカトニックを。へぇ、生演奏かい」

「やめさせましょうか?」

「いえ、聞かせてください」

雪見は客人とマスターの会話は聞こえないが、少し、声に力が入る。客人は、その後一言も話さずウォッカトニックを飲み干す。千円札をカウンターにおき、コートを羽織る。ごちそうさま。またどうぞ。

「岡部、今夜はもう2、3曲いけるかしら」