8.31.2008

てんとてん

エレベーターの中、恵介は一人だった。突然、エレベーターが激しく揺れ、身体はスーパーボールのように壁から壁へ、床から天井へと投げ回された。30秒か40秒間、揺れが続いた。ようやく静まると、エレベーターの中は真っ暗で、恵介は汗びっしょりだった。喉が痛い。無意識に叫んでいたのだろうか。外の世界では何があったのか。地震か、戦争か、それともただの事故か。

携帯電話の画面の灯りをたよりに、黄色い非常用の通話ボタンを見つけだした。
ボタンをグッと押すと、雑音まじりに電話の発信音がする。

プルルル・・・プルルル・・・

誰もでない。恵介はもう一度黄色いボタンを押し、発信音はそのまま切れた。恵介は少し眠ることにした。助けを呼ぶこと以外では、睡眠をとって体力を温存しておくことしか思いつかなかった。思いのほか、身体は素直に寝付いてくれた。時に起きては非常ボタンを押し、しばらく返事がないことを確認してから寝る。しばらくこれが繰り返された。恵介は悲しくなって、泣いた。何が起きたのか分からないが、確率としてはこの狭い、暗いハコの中で一人で死ぬ覚悟だった。

プルルル・・・プルルル・・・カチャ「・・・もしもし」

「もしもし?」

「もしもし。」

「助けて下さい。エレベーターに閉じ込められてるんです。」

「残念ながら、私も動けなくて。今、確かに私は地下の防災センターにいますが、ガレキの下敷きになって何もできないのです。さっきから非常ボタンを押していたのはあなたでしょう?何もできないのに、申し訳なくて電話をとれなかったのです。」

「そうですか。それでは、あなたも外の世界で何が起きてるか、知らないんですか」

「ラジオで聞きましたよ。戦争のようですよ。」

「やはりそうでしたか。私の名前は恵介です。」

「私は、瀬川といいます。お役に立てなくて申し訳ない。
どうしますか、電話はきりますか?」

「お互い、何も役に立てそうにないですね。」

「でも、せっかくですからお話していましょうか。」

「私も、できればそうさせてもらいたい。」

「同じ世界にいて、もう少し早く仲良くなっていれば良かったですね。」

8.27.2008

にらめっこの本能

他の動物と比べて、人間の赤子というのは格段に世話のかかる生き物らしい。一番分かりやすい例は、ウマとかウシなどの四本脚のほ乳類は生まれてから間もなく歩くことが多いが、人間の赤子の最初の数ヶ月は基本的に寝たっきりだ。ウマであろうが人であろうが、 母親が面倒を見てあげなければ死活問題であることに違いはないと思うが、生まれつきの動体能力が限りなくゼロに近いと、その分そいつを守らなければならない立場にある人間の親の神経の負担は大きい。

ところが、ある聞いた話で面白かったのが、人間の赤ちゃんは他の動物にない能力も持っているらしい。聞こえは悪いが、頼りない分「他人に世話をしてもらう」ことが大変お上手なのだそう。

赤ちゃんと生活をしていて不思議に思うのが、本当に良く目が合うこと。振り向くと見てる、そんな場面が良くある。これはまんざら偶然でもなくて、赤ちゃんには生まれつき「人の顔の構成」を知っているらしい。目、鼻、口、耳の配置など。知ってるから、自然と人間の顔を常に探しては、目が合ったときにキラキラビームを発する。

「抱っこして♪」
「腹減った(怒)」
「うんこ凹」

ある科学者が実験をして、生まれたばかりの赤ちゃんにお面をさかさまにして見せたらしい。さかさまでは全く反応しないのに、上下正しくしたお面にはきっちり目を合わせたらしい。

8.21.2008

ある種のエピキュリアニズム

川村勇は30才。

いつかは、富士山をのぼりたいと思っている。登山の経験は一度もない。

どのようなきっかけで思うようになったかは、はっきり覚えていない。この何年間、じわりじわりと富士山の頂上からみる絶景に対する憧れが込み上げるのだった。部屋では、山の写真集や、登山に関する入門書を眺めることが多くなった。毎日数キロ歩く習慣も身につけた。いつかはあの澄んだ空気で朝焼けをおがんでみたい。

長く考えれば考えるほど、本人の中では富士山をのぼること、それを達成することに対する想いが使命感にすら感じることもあった。だから、知識も万全で身体の調子が良くて、いつでも行ける状態になったにも関わらず、心の準備を決定づける何らかのきっかけが必要な気がして、今もその何かを待ちながら日々を過ごしている。

8.15.2008

病棟の寝巻きでぶらり

私が住む東京の下町エリア(江東区・墨田区)は、関東大震災と東京大空襲の当時の被害が特にひどかったらしく、ところどころに○○資料館とか、××記念館とかが、ちらほらあります。先日退院した病院のとなりにも結構大掛かりな「東京都慰霊堂」というのが公園の真ん中にデーン、とありました。震災と空襲の犠牲者をまつってあり、昭和五年(1930年)に竣工したそうです。

大空襲があったのは1944年から1945年ですから、元々大震災の犠牲者のために建てた慰霊堂に、言葉は悪いですが「後付け」で空襲の犠牲者もまつることになったということになります。慰霊堂の中には、震災後の東京名所の様子の油絵や、焼け野原の写真も並んでいました。隣接の資料館では、まさに後付という形で「空襲コーナー」が設けられ、当時の人たちの遺品などが展示されていました。

慰霊堂が竣工してから一世代も回転しないうちに、震災の犠牲者数(6万人弱)を大きく上回るような(凡そ10万人)悲劇が起きたわけですから、なんとなく一緒にまつることになった流れも、当時の人の心情を想像すると納得しました。

8.06.2008

お便りコーナー

こんばんは。ヒナミケイスケです。お久しぶりです。

私はこの何日か、入院していました。退院は決まっていませんが、多分あと一週間前後だと思います。原因は笑っちゃうくらい幼稚なので、まあ、聞かんといてください。命に別状はないようです。

人生初の病院生活です。想像したことはありますが、何か違います。暇だろうから書き物とか作曲とか捗るかなあ、なんて思ったりもしましたが、どうもペンが動きません。普段は窓の外をぼーっと見ているか、テレビを見ているか。なんだか、前向きとか後ろ向きとかとは関係なく、ここでは病院にただ居ることが仕事のようで。なんか説明しにくいです。外には首都高が走ってます。いつも渋滞しています。隣のベッドのイシクラさんは四十才で孫が生まれたそうです。看護婦さんは、日々私の包帯を見ては「養成ギブスどうだい?」とからかってくれます。

発見したこと。ほんの些細なことばかりですが。

ナンバ歩きすると(右足が前のとき右腕も前、左足が前のとき左腕が前)、ある程度寝巻きがはだけるのを防げる。

少女マンガをバカにするやつは僕が許さない。クッキングパパはかなりの男前だ。

ミントチョコのアイスが好きだ。

人の目を盗んで脱走し、足りるか分からない小銭でドキドキしながら買ったタバコを道端でしゃがんでコソコソ呑むと格別においしい。

夏はキライじゃない。

○○が大好きだ。言えない。

ヒゲはのびすぎると剃るのが大変だ。

寝てる体制からまず視野に入ってくるフェンダーの看板が僕をあざ笑っているのか励ましてくれているのか良く分からない。

ok city okいい加減に頑張ってください。あと、ナカジ、あとちょっと待っててください。僕も早く出たいです。