2.28.2009

黒のウイングチップ

この工房も36年間続けてきたが、いよいよ明日で店じまい。予定より早く最後に注文された革靴を完成してしまったので、いまはその靴を念入りに磨いている。発注したのは新規のお客で、40才くらいの爽やかな紳士だった。来年から会社をおこすことになったので、縁起よく新しい靴で踏み出したいんだとか。

手作りの革靴で大事なのは足の形に合わせた「型」。こいつを一度作っておけば、工房が有る限り後から何足でもその客にぴったり合う靴を作ることができる。もちろん事前に紳士にも店の事情を伝え、うちの場合せっかく型を作っても一回切りだと説明したが、彼はそれでもかまわないと言ったのだった。

多少の物好きなのだろう。

2.19.2009

そのときは手を握って

仲の良い老夫婦、林田秋男と恵子夫人。大した蓄えはないが、年に一度は二人で温泉旅行にいくようにしている。定年退職してから湯布院、別府、箱根、草津そして今年は少し足を伸ばして北海道の阿寒湖。春先に恵子が不明な病で熱を出し、今年は見送りかと思っていたが、秋になって医者に改めてみてもらったところ大丈夫でしょう、と嬉しい結果となった。

林田さん、歳をとっていくにつれて、身体が変わってくるのは当然のことです。一つ一つの異変に気を配っているより、元気なうちに前向きに人生を楽しんだ方が何よりの療法ですよ。奥様も今は普通の生活に戻れたのだし、連れていってあげてください。お酒の飲み過ぎだけには気をつけてくださいね。

二人は北海道を存分に満喫した。お祝いとして、秋男は宿も料理も少し奮発してみた。恵子もとても嬉しそうだった。三日目に帰りの飛行機に乗った。

秋男さん、来年も私たちこのように旅行に行けるといいですね。

そうだな。来年も、行けるといいな。

私が先に逝ったら、秋男さんはそのまま旅行に行かれてくださいね。

そうだな、どうするかな。君が先に逝ってしまったら、一人になってしまうからな。

淳二さんを連れていけばいいわ。

ああ、やつは仕事と家族で手一杯だろうさ。じゃあ、私が先に逝ったらどうする?君は淳二の家族でも連れていくかい?

まあ、そんな。三人がかりでこんな婆さんの相手しなくてもいいこと。

あはは、そうかそうか。

うふふ、そうよそうよ。

2.16.2009

お天道様はサウスポー

嫌みなくらい晴天の日、とある建築現場にて。

大工の連中が、木製一戸建ての枠組みの作業をしていた。男達は昼休み中で、何かもめごとが勃発している様子。大分年老いた棟梁が、仁王立ちで腕を組み、地べたに座る4、5人の若手に向かって説教している。かなりご立腹のようで、その迫力ゆえいくらガタイの良い若手でも、誰一人地面から目線を上げられないでいる。

現場で、しかも真っ昼間からビールを飲むとはどういう神経していやがる。依頼人が突然現れたらどう説明するんだ。誰かケガでもしてみろ、誰が責任とらなきゃならないか知ってやってるのかてめえら。意識が甘い、と。いしゅくしてまるで口答えできなくなった連中に対する怒りは増すばかりで、棟梁も言葉を果たすと一番近くに座っていた者の襟元をムンズと掴む。酒を仕入れたのはお前か。クソったれが。

やれやれ、こっちの方が確実にケガ人が出る。
こんな、嫌みなくらい晴天の日。

2.11.2009

成長を辞めたいと思います

佐治龍男は27才のタクシーの運転手。

運転手になる前は、ある大手のIT企業で5年間勤めていたが、ある日ぽつりと辞めてしまったのだった。決して無能な人間ではなかったが、今ひとつやる気が出なかった。デスクワークにつくとついつい居眠りしてしまうし、営業に送り出されればスロットに入り浸ったまま社に戻らない。仕事の出来は別にして人当たりはよく、人の恨みを買うことはなかったものの、彼が会社を去ってホッとした上席は一掴みいたのだそうだ。送別会ではとある受付の女の子が異常なくらい泣いていたという。

タクシーを運転するにあたって、佐治の中では「つなぎ」という意識はなく、むしろ狙い撃ちの天職だと思っている。元から運転は好きだし、道路は得意だ。家族もいないので、一人分の生活分が稼げて、それなりに退屈しなければそれで良かった。確かに一つの場所に留まれない怠け者、と考えるとタクシーほど性に合う職業はないかも知れない。同じタクシー会社の運転手のほとんどは一まわりも二まわりも年上だが、「変わりもんの若手」を気持ちよく受け入れてくれた。

女遊びも実は充実している。酔っぱらった勢いで物珍しさゆえ寄ってくる女性客は、佐治にとって都合が良かった。人に期待されていることが明白で、それに応える自信があった。

そんな佐治が酒の場でこぼす口癖、
荷物は運んでやるけど、俺は誰の荷物にならないよ、
と清々しい笑顔で言うという。

2.10.2009

二兎を追う者

崎山純子が橋から飛び降りようとした夜、零時を回っているというのに橋を渡る道はすっかり渋滞していた。10キロ先のジャンクションで起きた交通事故の影響で、彼女のいるところまで混雑に巻き込まれていたのだった。

願わくばもう少し落ちついた雰囲気で事を済ませたかったが、彼女にとって決行を取り止めさせるほどのことではなかった。見せ物じゃないのよ、ふん、と思いながら、道を背に手すりをまたいだ。ギャラリーの中から数台の車はクラクションを鳴らしたが、彼女を説得するために車を降りる者は一人もいなかった。どうせそんなもんよ、と彼女はますます決心を固めるのだった。

両手で手すりをつかんだ状態でしばらく想いにふけていると、どんどん近づいてくるサイレンの音が聞こえてきた。振りかえると、大きな救急車が強引に車の合間を切り抜けて走ってきた。ほんの一瞬、崎山は救急車の運転手と目が合ってしまった。運転手は若い男だった。救急車は停止し、男が降りて彼女に近づいた。

「あの」

「止めないで」

「いえ、あの」

「あたしに何か用?」

「飛び降りるんですか?」

「見れば分かるでしょう。そう、私は飛び降りて死ぬの」

「あの、そうですか」

「あなた、説得するにもこれじゃあ全くの役立たずね」

「いや、私は10キロ先の交通事故の通知を受けましてですね」

「じゃあ、さっさと行けばいいじゃないの。助けを求めてる人がいるんだから」

「見ちゃったわけですから、放っておくわけには」

「だから止めないでと言ってるのに」

「そうですね」

「そうですねって、あなたいったいどうしたいの?」

「救急隊員でして、ケガしていない人に対して、何も施す手がありませんで」

「私が飛び降りた後に、助けるわけ?」

「そう、なりますね。説得の方法も、知らないので。正直、困りました」

「あなたがすぐ助けるとなったら、私飛び降りれないじゃないの」

「それならそれで、良いのですが」

「あきれた・・・」

「呆れるのも結構ですが、早く決めていただけませんか?」

「あなたいったい何?」

「次があるんで」

2.04.2009

迷子といりくる愛の行方

ネコのコタロウが帰ってこないな。夕飯の時間にもなるのに。

妻は台所のながしに向かって鍋を洗っている。私はテーブルで萎びた枝豆を前に、生ぬるくなった缶ビールを飲んでいる。私が分かりきったことを口にしてしまってから、お互い一つも言葉を交わさず二十分ほど経ってしまっているのだろうか。

コタロウは半年前にペットショップで買ったアメリカンショートヘアのメスだ。妻はそれまで一度もペットを飼いたい素振りを見せたことがなかったが、私が半ば冗談で家に連れてかえるかと言ったら、頭をゆっくり縦にふった。子供もいないし、頻繁に旅行に行くような夫婦でもないものだから、決断は早かった。

妻はもとから口数の多い人じゃないが、コタロウを可愛がっていることはすぐに分かった。仕事から帰ると、コタロウはたいてい妻の膝にのっているか、彼女の脚に巻き付くようにしていた。ちなみに、「コタロウ」という名前を付けたのも妻だった。子猫の性器は実に難しく、ペットショップでも性別を誤ることもあるようだ。ただ、メスであることが判明しても妻は名前を変えたくないといった。

コタロウでいいの。

その決心は固かった。私からしてみれば、コタロウであろうとモモコであろうと、ネコはネコなので妻の好きなようにさせた。

明日は、ビラでも書いて街の掲示板に貼りに行こうと思っている。

2.02.2009

すごいくすり

大手製薬会社の社長が研究所の戸をたたいた。社内のうわさで、最近ちょっと訳ありの開発者がヘッドハンティングで入社してきたという情報を仕入れたのだった。どうやらこの男、開発の腕はたしかだが今ひとつ気が利かない、と、やや謎めいた評価が人事レポートに記してあった。

「君が脇谷君か」

「はい、社長。ご用件でしたら、私から伺ったのですが・・・」

「いや、このままでいい。君の仕事を見に来たのだから。今はどのような新薬を開発しているのだね?」

「これになります」

脇谷はオレンジ色の透明な液体が入ったビーカーを社長に見せた。

「これと言われてもなぁ。効果は何なんだ?」

「これは、私が前職の時から長年かけて開発を続けてきたものです。頭痛薬とバイアグラに続いて世の中をアッと言わせる・・・」

「もったいぶるんじゃない」

「異性から嫌われるようになる薬です。」

「嫌われる薬?」

「もっともです。この薬を飲むと、普段身体が発するフェロモンの物質が一部変化されて、約99.79%の異性が生理的に受け付けなくなります。単的にいえば、男であれば一週間は女性に口すら聞いてもらえないことでしょう」

「効果が凄いのは認めるが、脇谷君、これはいったい誰の役に立つのだね?それをやるならモテる薬こそ人類の夢ではないか」

「お言葉ですが「好き」というのは非常に複雑でして」

「どのように複雑なんだ」

「例えば、です。結婚を考えるとき、やらない理由がごまんとあって、する理由が一つしかない、と言うでしょう?」

「聞いたことあるかもな」

「下手な鉄砲うっちゃあ「嫌い薬」の方が出来やすいってことです」

「しかし、脇谷君、繰り返すようだが、これは売れんぞ・・・」

「ダメですかね?」

「ダメだな」

「もったいないですね・・・」

「う〜ん」