2.26.2012

見て守る

塊優太26才。私は大手町のとあるオフィスビルで夜勤の警備の仕事をしています。大学を卒業したばかりの頃はごく一般的な就職をしていたので、まさか自分がこの年でこのような仕事をしているとは想像できませんでした。大学時代の友達も何人か、昼間はこの建物で働いていると聞きます。僕の方から連絡することはありません。自分が恥ずかしいというより、他人に気を使われる方が辛いです。

私は野心家ではありませんが、正直これでいいと思っていませんし、心配する親に申し訳なく思っています。でも、いまはこの状況が心地良いのも否めません。

私のシフトは夜10時からはじまります。この時間まで残業する人はいませんので、このドンガラとなった巨人のなかにいるのは私と、監視カメラのモニターを担当するパートナーだけになります。ちなみにパートナーは大分年も経験も上で、この建物の監視カメラを20年以上も眺めてきた人です。同じ建物でも20年前はもっともっと人が大勢いて、それも夜遅くまでガツガツ働いていたそうです。

いかがわしい警察官のような服に着替えて、懐中電灯と予備の単一電池をポケットに入れて見回りに出かけます。はじめての見回りのとき電池が切れて、都会なのに遭難しうることを知りました。多少慣れた今でも真っ暗は怖いです。

最上階の17階までエレベーターに乗り、そこから階段で下りながら巡回します。この建物には色んな会社があって、階によって雰囲気が変わります。借り手のない、抜け殻のような階もあります。時々、ガラガラの階で窓の外の夜景をみながら休憩します。

2.14.2012

母親の手紙

この頃母親から手紙が頻繁に届く。頻繁といっても2、3ヶ月の間隔だが、自分が手紙を書く習慣がないので頻繁に感じているだけかも知れない。返事はいらないと言うので、甘んじて書いていない。

最初の一通が届いたときは何かとんでもないことがあったのではないかと焦った。私は昔から親に苦労させた方なので、大抵親から接触がある場合は説教される体制をとる。ただ思いの外、手紙の内容は日々の雑感や嬉しかったこと、不安に感じていることばかりで、仮に赤の他人宛に送ったとしてもまかり通るほど平凡だった。

意図は未だに分からないが、感じたことがある。自分が年をとったせいかも知れないが、幼いころ見ることの出来なかった親の人間性。それは弱さであり、時には愚痴という形もとるし、根拠もない希望だったり、人には言えない内緒だったりする。良くも悪くも、親はスーパーマンでなくなり、一人の男や一人の女になる。

母親は時々、手紙と一緒に新聞の切り取りみたいなものを同付する。最近の手紙には、夏目漱石の「草枕」と言う本からの一ページのコピーが入っていた。恥ずかしながら私は夏目漱石の本を開いたことがないが、偶然で最近たまにライブをやらせてもらっている喫茶店の名前が「草枕」という。

以下、草枕より

兎角に人の世は住みにくい…中略…越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせぬばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊い。住みにくき世から、住みにくきわずらいを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。

2.01.2012

どうか忘れないで

先々週の土曜日、新橋のとある裏道に迷い込んだ。そこには過剰とも思えるほど多くの蕎麦屋がならんでいた。平日は多くの会社員でにぎわっているに違いないが、その土曜日の昼過ぎはほそぼそと営業していた。

歩いていると、どの店も非常に似ていることに気づく。どこに入ってもメニューは大体同じ、価格もしかり。同じ券売機、同じ食品サンプルの入ったガラスケース、同じような茹で場担当の無口なじいさんと同じような雑務担当のおばちゃん数名。見分けるには店の名前をおぼえるしかないだろう。もっとも、全部同じなのだから店を見分ける必要がないといえば無い。まるでこの特別な新橋の片隅だけ、差別化、だとか、競争、のような経済的な原理から免除されているように思えた、それも、ごく当たり前のことのように。

私は店に入り、券売機で好物の「ミニかき揚げ丼セット」の食券を買った。ちなみに、私の場合は寒い季節でも、ざる蕎麦でないと蕎麦を食べた気がしない。三十秒待たないうち、セットが盆に出された。奥の立ち食いカウンターで陣取った。

一人の老人が店に入ってきた。多分、温かいわかめ蕎麦を注文したと思う。雑務のおばちゃんが世間話を持ちかける。今日も寒いですね、空いてるからどこでもゆっくりして食べれますよ、と嬉しそうに言う。どうやら常連のようだった。

先週の土曜日、たまたま近くにいたので、同じ裏道で蕎麦を食べることにした。同じようにミニかき揚げ丼セットを注文し、奥の立ち食いカウンターで食べた。老人が店に入ってきた。雑務のおばちゃんが世間話を持ちかける。今週は雪のようですね、今日は空いてるからどこでもゆっくりして食べていってくださいね、と嬉しそうに言う。

店の名前を覚えておけばよかった、とふと思った。