3.13.2016

もう一人の足音

私はよく低山を歩く。

低山といっても1000メートルは超える。東京タワー数本分の高度となると別世界感が漂う。風景そのものが「街」でなく「森」なのは当然だが、もう一つ決定的に違うのが「音」だ。無数の音が交わる街と比べて、山では音の数がぎゅっと少なくなる。自分の足音、呼吸、風の音、小鳥が一羽、小鳥が二羽…という具合である。片手で数えられる音の一つ一つが識別できるので、初めて山を歩く人なら優れた聴力でも身につけてしまったのではないかと疑ってしまうと思う。

いつのことだったか、いつものように近場の山を歩いてた時のこと。明かりの少ない登山道で、平日だったため他の登山者とすれ違うこともなかった。そこそこ高度を上げてきたところで、いつものように周りがしんとしてきた。小鳥が一羽。私はこの感覚が好きだ。足を止めて立ち休憩することにした。足音まで止んでしまうと、まるで自分の存在がものの一瞬、ふっと消えてしまった錯覚に陥る。

再び歩き始める。登山道の小枝や枯葉に体重がかかり、心地よくザッザッと音がなる。

ザッザッ。ザッザッ。

自分じゃない、もう一人の足音がする、それもすぐ側で。振り返っても、見渡す限り誰もいない。空耳かと思い、再び歩き出すともう一人の足音も始まる。

試しに走ってみた。もう一人も気づいて追いつこうと走りはじめる。ゆっくり歩くと、寄り添うようにペースを合わせてくる。

やがて登山道は開けた稜線に出て、もう一人の足跡は聞こえなくなった。

いまでもこの山はよく歩きに行くが、このようなことが起きたのは先ほどの一度っきりだ。振り返れば怪奇現象だが、あの時私の心に恐怖がなかった。

多分、歩き続けるほか何もできなかったからだと思う。もう一人の足音の主も、なんとなく似た感じで歩いていたのだといま思う。